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出典:The Swedenborg Concordance (Swedenborg Society)
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主がなされたあらゆる奇跡の記述は、主の来臨により仁慈の信仰を受け入れた者たちが地獄から救われたこと、すなわち
救われた地上の教会および人類の仁慈状態を表象している。主の行われた奇跡は、天的なものであるため、こうした表象を含んでいる。旧約聖書に記された奇跡も、地上の教会および天にある主の王国の状態を表している。その他の奇跡(エジプトの魔術師の魔術など)は、外見上はどんなに同じように見えても、主の奇跡と決定的に区別されるのはその点である。天的な奇跡は、天的な秩序に基づき、霊界から自然界に流入するという秩序により、行われた。一方魔術は、他者を支配する目的で自分のために権力を獲得するため、悪によって行われるもので、その中には何の表象もない。
そこで主が盲目、足なえ、つんぼ、死人、らい病人・・・などを癒されたとある記述は、それらの病人が表象する状態にある人々が福音を受け入れ、霊的に癒されたことを表す。
(天界の秘儀) |
◆足なえ(the lame)
◆おし(the dumb)
◆汚れた霊に憑かれた人(a man with an unclean spirit)
◆中風やみ (sick of the palsy)
◆つんぼ、耳しいた者(the deaf)
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長血をわずらう女(a woman, which had had an issue of blood)
◆熱病(fever)
◆病人(the sick)
◆右手のなえた人(a man whose right hand was withered)
◆盲目な者(the blind)
◆らい病(leprosy, lepper)
◆・・・◆・・・◆キーワードの解説◆・・・◆・・・◆
足なえ(the lame)
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足なえは、もともとの意味は、聖言の見かけや誤った意味から自然的な善の中にいて、霊的な善が流れ込むことのできない人々を指す。そこから善の中にいるが、真理を知らないために本物の善の中にはいない人々を指す。たとえば互いに隣人愛に生きている異邦人のようなものである。「片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろって永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです」(マタイ18−8)は自然的な人間が信仰の事柄に反発したり信仰に基づいた生活から抜け出るように説得したりするくらいなら、たとえ真理を否定しても(キリスト教を離れても)単純な善の中にいる方がましだということを指している。「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や・・・足なえをここに連れてきなさい」(ルカ14−21)の「足なえ」は聖言を持たないために真理を知らず、それゆえ善が欠乏しているが、真理を求めている人々、それに出会うと善の中に入る人々を指す。
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おし(the dumb)
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「おし」は主を告白することのできない人々を指す。それゆえ無知から主への信仰を語ることもできない人々である。これは教会の外にいる異邦人の状態である。また教会の中にはいるが本物の真理を告白できない単純な人々の状態でもある。「そのとき、・・・おしの舌は喜び歌う」(イザヤ35−6)は、彼らが主を告白し、また主への信仰の事柄を語ることを指す。主に癒された「おし」とは、主の到来により誤謬から救い出され、その結果悪からも救い出された異邦人を指す。「おしとつんぼの霊」(マルコ9−25)と言われたのは、真理を見ようとも、理解しようともしなかったからである。
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汚れた霊に憑かれた人(a man with an unclean spirit)
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外面的な「汚れ」はすべて内面的な「けがれ」を表している。すなわち、人の中にある悪である。それは実際の生活によって自分の意志のものとした悪である。
「汚れた霊につかれた人」(マタイ12−43)とは、その人の生活が汚れており、また汚れた霊が彼と共にいたことを言っている。というのも、人の生活が汚れていると、そこに汚れた霊も住むからである。
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中風やみ (sick of the palsy)
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著作にはっきりした説明はないが、「仁慈から切り離された信仰のうちにいる者は、身体の半身がマヒした中風のように見える」という記述がある。
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つんぼ、耳しいた者(the deaf)
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「聞く」とは理解すること、従うことに対応しており、「つんぼ」は真理を理解せず、その結果真理に従った生活をしない者を指す。また「つんぼ」には、聖言を持たないために真理を知らず、そのために聖言に従った生活ができない異邦人も含まれる。彼らは教えられると受け入れ、それに従った生活をする。「耳があっても耳しいたものたちを連れ出せ」(イザヤ43−8)は主の到来により、信仰の真理を受け入れる状態になり、すなわち知覚して従うようになった状態を指す。主が癒された「つんぼ」も同様の意味を持つ。「わたしの送る使者のような耳しいたものが、ほかにいようか」(イザヤ42−19)は、主は優しく身をかがめられ、人間を壊さぬよう(こらしめたり罰したりせず)人間を導かれ、悪から引き出し、善へと導かれるので、あたかも人の罪を見たり知覚したりしないかのようであることを言う。
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長血をわずらう女(a woman, which had had an issue of blood)
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血はよい意味では、神のご意志を表す。すなわち神の愛、人類への憐れみ、仁慈を表す。これは神のみにある意志である。肉は人間の意志である。これは「すべての肉のいのちは、その血そのものである」(レビ記17−14)という言葉で表されている。肉体の生命は血液にあることから、血は究極の魂に喩えられた。そして旧約では、「あなたがたは、だれも血を食べてはならない」(レビ記17−12)と言われた。肉と血を一緒に食べることを禁じられたのは、それが神の意志を人間の意志と混じり合わせることを意味するからである。聖いものと汚れたものを混じり合わせることは、すなわち冒涜である。よって上の命令は、冒涜してはならないことを指す。
また、聖餐における「血」は主から与えられた天的な真理を表す。
また悪い意味で血は、神のご意志(愛、仁慈)への暴力、すなわちあらゆる憎しみ、特に冒涜を表す。というのも、無垢な者の血を流すとは、聖なるものへの暴力であるから。そして兄弟を憎む者は、心臓を突き刺して殺すからである。憎しみは「血」で表象されることから派生して、あらゆる悪行も「血」で表される。というのも、憎しみは、あらゆる罪の源だからである。「兄弟の血を流す」とは、文字通りの意味では殺すことであるが、これは隣人に憎しみを抱くことをも指す。
血に関する記述ではゆがめられ、冒涜された真理を表す。
長血をわずらう女が新約聖書に出てくるが、おそらくは悪い意志で天的な意志を冒し、あるいは誤った原理で天的な真理を冒した者のことを指すのではないかと思われる。
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熱病(fever)
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「わたしの命令をすべて行わず、わたしの契約を破るなら・・・肺病と熱病で目を衰えさせ・・・」(レビ記26−16)熱病は、悪の欲念を表す。
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病人(the sick)
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病気とは、死に先立つ状態であることから、再生に向っている状態のことを言う。聖言で言うところの病人とは、自分自身の内には悪しかないことを認める人たちのことである。そして病人が癒されたとは、悪や悪の虚偽から人が清められたことを言う。
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右手のなえた人(a man whose right hand was withered)
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聖言では身体の右半分は意志(愛、仁慈)に関することで、左半分は知恵(真理)に関することだという。
また「手」は力を表す。そこで右手のなえた人というのは、愛の意志に欠けた人を言うのではないかと想像される。
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盲目な者(the blind)
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聖書で盲目とは、誤謬の中にいる者、あるいは真理を知らない者を指す。教会の内にいながら「盲目」と呼ばれる者は、誤謬の中にいる者である。しかし教会の外にいて真理を知らない者に対して「盲目」と言われる場合、それは真理に対する無知を意味し、その場合は罪がない(本人の責任ではない)。
「その日、・・・盲人の目が暗黒とやみの中から者を見る」(イザヤ29−18)で言うところの「盲人」は、真理を知らない人々のことである。
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らい病(leprosy, lepper)
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らい病は、真理の冒涜を表す。レビ記13章のらい病に関する記述はすべて、内的な意味では真理の冒涜のあらゆる性質が描写されている。「頭から足をおおっている」(レビ記13−12)らい病とは、内的な真理を知りながら、それを認めない者である。それは内的な冒涜ではなく、外的な冒涜に過ぎない。従ってそれが取り去られると「清い」。しかしもし信仰の真理を知って、それを信じながらそれに反する生活をする者は内的に冒涜する者である。また信じた後に否定する者も同じである。これが「生肉が彼にあらわれるとき」の意味することである。「らい病人はきよめられ」(ルカ7−22)におけるらい病人は、汚れてはいるが、しかしそれでも清められることを願っている人々のことである。
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*スウェーデンボルグはヨハネ黙示録を除く新約聖書の解説は書いていません。ところどころから抜粋したものを集めたものです。なお、奇跡については、「今日奇跡が行われないのは、奇跡は目に見えて理解できるものであるので、人々に信じることを強制するものだからである。そして強制することは、自由を奪うことである。自由からでないものは、その人の内にとどまらない。今日では奇跡の代わりに、主ご自身による啓示がある。」という記述がある。
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