乃木希典とスウェーデンボルグ

【鈴木大拙と乃木希典】

  明治42年(1909年)、「英国スウェーデンボルグ協会」の依頼で『天界と地獄』の翻訳をロンドンで終えた鈴木大拙は、足かけ12年ぶりに日本の土を踏むことになった。
大拙は最初、再びアメリカへ戻ろうと考えていた。ところが帰国直後、大拙が働いていた「オープン・コート」社の後援者、エドワルド・へゲラー氏が急逝したこともあり、その望みは絶たれてしまった。そこで大拙の友人たちの世話で、明治43年、学習院の教授となり、大正10年まで12年間この職にあった。このときの学習院の院長は、あの日露戦争で活躍した「悲劇の人」乃木希典(のぎ まれすけ 1849〜1912)であった。
 大拙は、『天界と地獄』の和訳書の出版した2年後、「英国スウェーデンボルグ協会」から、「引き続きスウェーデンボルグのものを訳してもらいたいから、その相談をしにイギリスへ来て欲しい」という依頼を受けた。そこで明治45年(1912年)3月末、大拙は学習院教授在職のまま1学期間の休暇をもらい、アジア鉄道を使ってロシア経由でイギリスに渡り、『神智と神愛』(『神の愛と知恵』)などの翻訳の準備をした。ところがその7月に、大拙はロンドンで「明治天皇崩御』の報を聞くことになる。そこで急遽、帰国することになった。
 帰国して夏休みあけの学習院で大拙は、院長の乃木希典に「帰りました」と挨拶した。その時の乃木院長の印象について大拙は、「大将は難しい顔をしておられた。そのときすでに、自殺を決意しておられたのだろうが、学生に訓辞をされる大将の横顔が、いかにもさびしそうだった」と語っている。 そして明治天皇の御大葬の日(9月13日)、乃木は妻の静子と共に"殉死"した。

  ところで、故 鳥田四郎牧師主筆による『新教会』109号(昭和37年8月発行)によると、大拙が和訳した『天界と地獄』を乃木希典は読んでいたらしく、学習院の図書館にあった同書に読後感が書き込まれているのを見た人がいた、とある。あいにく戦災でそれは消失してしまったようで、その内容を知る術はないが、興味深いエピソードである。

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文責 山本康彦    

   
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