

ハリスはイギリスに生まれたが、5歳のときに両親とともにアメリカへ移住した。彼は20歳のときに普遍救済主義派の牧師となり布教活動をしていた。しかし、24歳のころにスウェ一デンボルグの教義を知り、その均整のとれた思想に心酔してからは、ニユ一ヨ一クにおいてスウェーデンボルグ派として布教活動をするようになった。しかし、やがてハリスはそれに満足できなくなり、そこに独自の解釈を加えるようになった。そして「新生同胞教団」(The Brotherhood of the New Life)と称する、いわば原始共産制コミュニティを設立し、信者とともに生活するようになった。
さて、オリファントは1861年に憧れの日本に外交官として再来日した。ところがその数日後、領事モリソンとともに水戸浪士の襲撃を受け(東禅寺事件)重傷を負い、わずか10日あまりで帰国せざるを得なくなってしまった。しかし、日本人によって命を狙われたオリファントであったが、彼の日本人を愛する気持ちが変わることはなく、むしろ日本への愛着を深めていった。オリファントは日本民族を世界史的にある使命を帯びていると信じ、その将来に大きな夢を託していたのである。 このころ日本では、薩摩藩士によるイギリス人殺害事件が原因で、薩摩藩とイギリス艦隊との間で砲撃戦があった(薩英戦争)。この戦いで近代兵器の威力を見せつけられた薩摩藩は、本格的な洋学 振興方針をとることになった。そしてイギリスと親密な関係を結び、1865年3月、15人の若き薩摩藩士たちを留学生としてイギリスへ送り出したのである。
この日本から来る留学生を好意的に迎えた人物こそ、オリファントだったのである。彼は2年前に来ていた伊藤博文や井上馨ら長州藩留学生の世話もしていた。 ![]() 薩摩藩英国留学生 後列左から 畠山義成 高見弥市 村橋直衛 東郷愛之進 名越平馬 前列 森有礼 市来勘十郎 中村博愛 さて、留学生たちがイギリスにやって来てから2年後、彼らに薩摩藩から帰国命令が届いた。いよいよ倒幕の機が熱したことと、留学費用の捻出が困難になったことがその理由であった。そのため、彼らは志し半ばにして帰国しなければならなくなったのである。 ちょうどそのころ、ハリスがパリ万博見学を兼ね、自著の出版交渉のため、たまたまロンドンにやって来た。このとき、オリファントを通じ日本人留学生の窮地を知ったハリスは、留学生たちに提案をした。それは、自分の教団に来るなら半日労働をすれば半日は勉学の時間を与える。教団内には多方面の高度な知識を持った人たちが集まっているから諸君らの勉学の相手にもなってやれる。さらに専門を深めたければ大学への道も斡旋してやろう、というものであった。 ハリスもまた、彼独自のキリスト教による王国の建設は日本が最も適していると考えており、日本人に大きな期待を寄せていたのである。 オリファントやハリスが日本人に注目していた理由は、スウェーデンボルグの神学著作の中に、神による新しい教会(新教会)の建設は、キリスト教世界から離れた国民に期待されていると書かれていたからであろう。 1868年7月、オリファントは母と妻を連れて、ついにアメリカへ旅立った。そして、その1か月後、6人の留学生が藩の帰国命令を無視して、オリファントのあとを追って「新生同胞教団」に入団したのである。
この6人の中には、後年、初代文部大臣となった森有礼、初代フランス公使となった鮫島尚信、カリフオルニアで大きなぶどう園の経営者となり「ぶどう王」と呼ば長沢鼎らがいた。
この「新生同胞教団」では、信者は無報酬でハリスが「The Use」と呼んで計画した厳しい労働に従事した。ここでは、ハリスの許しがなければ外出はもちろん、夫婦であろうと会うことは許されなかった。
森と鮫島は、1867年6月、戊辰戦争さなかの日本に帰国した。森は22歳、鮫島は24歳であった。
一方の森は、アメリカからの帰国後、福澤諭吉など当時の代表的な洋学者たちを集め「明六社」を結成した。「明六社」は演説会を開催し、その演説筆記をまとめた機関誌『明六雑誌』を発行した。この機関誌はわずか20ペ一ジ前後の小冊子であったが、毎号3000部あまりも売れ、日本人の思想の革新に大きな影響を与えたと言われている。森はこの中で"契約結婚"を積極的に勧め、1875年には自らそれを実行して世間の評判になった。この結婚式は、新郎新婦が約200人の参会者の面前で夫婦の誓約書を読み上げ、これに署名するというものであった。証人には福沢諭吉が立ち会った。こうしたやり方は、スウェーデンボルグの『結婚愛』の記述(307番)に一致している。
1885年(明治18年)12月、日本政府は内閣制度を設置し、第一次伊藤博文内閣が生まれた。このとき、森と交流のあった伊藤博文は彼の才能を認め、文部大臣に任命した。森は、社会状況の変化に即応して、多様な教育要求に応え得る学校制度を造り上げようとした。 しかし彼の活躍は長くは続かなかった。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布の日、森は国枠主義者に襲われ重傷を負い、翌日他界した。42歳であった。
森は、自分の内面を打ち明けることはなかったが、彼の身辺にいる者たちは、彼が後までハリスを信じていたと証言している。しかし森の政治思想や行動を見ると、ハリスの教義や「新生同胞教団」が理想とするような社会を認めている様子はない。むしろ森の政治的な考え方は、ハリスよりもイギリス留学のときにおけるオリファントによる指導が大きかったのではないか、と言われている。しかし森の言動は、やがてオリファントよりも、その源流であるスウェーデンボルグの思想に近くなっているのである(『異文化遍歴者 森有礼』(木村力雄著/福村出版)参照)。 ………………………………………………………………………………………………………… 文責 山本康彦 * 「森有礼とスウェーデンボルグ」については、『JSA会報』8号に、「新井奥邃とスウェーデンボルグ」については、『JSA会報』5号に、それぞれ瀬上正仁氏が研究論文を投稿しておられます。 * 明治時代におけるスウェーデンボルグの日本への影響については、瀬上正仁氏が『明治のスウェーデンボルグ』としてとりまとめ、「春風社」より発行しておられます。 |